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2021年 9月号

パラリンピックで学んだこと

 コロナの不安の中でパラリンピックが開催されました。開催の賛否はありますが、パラリンピックそのものから学んだこともありました。特にパラ特有のルール。なるほどと思うものが多いです。ご存じの方にはいまさらと言われそうですが、例えば、車イスのバスケットボール。選手にはそれぞれ障害のレベルに応じて分けられた持ち点が与えられ、持ち点は、最も障がいの重い1.0点から最も障がいの軽い4.5点まで0.5刻みに分けられており、コートに出る 5 人の合計点は 14 点以内と決められています。それにより、障がいの軽い選手だけでチームを組むことは許されず、障がいの重い選手も活躍できるシステムになっています。気がついた当たり前のこと。障がい者とひとくくりに捉えがちですが、障がい者と呼ばれている方々の中にも「障がいの程度に差がある」ということです。

 そこで疑問が生じました。障がい者と健常者はどこで線が引かれるのだろうかと。社会や福祉の制度を運用するために、障がい者と健常者と分ける必要があり、いわば便宜上、ふたつの間のどこかに線を引く必要があるのは分かります。昔、北朝鮮と韓国の国境の板門店を訪れた時のことを思い出します。国境線を挟んで両国の兵隊が触れんがばかりの距離で正対して警備しています。国境とは何か。そもそもこの地球に境目があったわけではなく、人間の歴史のいきさつと利害と思惑で、いわば関係者の都合で引かれた線です。つながっているというのが実相です。

 考えてしまいました。障がい者と健常者を分ける線て何だろうと。健常者だと思っているあなたは自信を持って自分は完璧(何をもって完璧というかも疑問ですが)だと言えますか。果たして完全な健常者っているのでしょうか。背が高いとか低いとか、太っているとか痩せているとか、最近目が見えにくくなってきた(遠視、近眼、乱視?)、コレステロールが高い、血圧が高いとか、人はすべからく何かしらの肉体的な問題を抱えています。還暦をとうに過ぎた私は、性格の良しあしも含め、到底言えません。

 さらに考えれば、人は生まれた時には言葉をしゃべることも歩くことも読むことも書くこともできません。年をとれば、記憶もまだらになり、杖を突き車イスのお世話になることもあります。人間が健常者として自由に動けるのは人生のほんのある期間だけではないかと。「障がい者にも程度の差があるし、健常者にも完全な健常者などいない」という事実を知ると、実は障がい者と健常者はグラデーションでつながっていることに気が付きます。そして、自分もいつ障がい者になっても不思議ではないという事実にも。

 いわゆる障がい者と呼ばれる方々の存在と置かれている現実に関心を持つことは大切です。しかしながら、障がい者に対して、あの人は自分とは異なる特別な人、かわいそうな人だから助けてあげなくちゃという意識と姿勢は、実はおかしいのではないかと。 同じ人として、自分より若干個性の強い人として、接していきたいと思います。

 経営者としてビジネスという観点で極めて現実的に考えれば、障がい者の方々は、市場が縮小する中でお客様にも、人口減、高齢化、少子化で働く人が足りなくなる中で働く仲間にもなりえるのですから。さらに言えば、スポーツだけでないあらゆる分野で、いわゆる健常者が持っていない能力を持つ方々がたくさんいます。

 これまたあたり前のことですが、この世はいろいろな個性のある人たちと共に暮らす場です。そう思えば、「自分は普通、あの人は変わった人」と区別することに意味はない。ならば、その意識をなくすこと。心のバリアフリーと言われるゆえんです。まさにすべてはつながっているのですから。きれいごとではなく、そう思います。

追申
 コロナで商売もままならず経営が厳しい状況下、また医療体制の不足から危機に瀕している命が多出している時に、私は(決してスポーツの価値や意味を否定するものではありませんが)このような国を挙げての大規模なイベントを開催すべきなのか? 普通の当たり前の暮らしを取り戻すためにそれより何よりも優先すべきは、コロナへの緊急対策に可能な限りの資源(国の人、モノ、金、情報)を投入することではないか?と疑問を投げかけてきました。大会が終わってもその議論はすべきだと思います。真のオリパラのレガシーを残すためにも。

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